H E L M I

わたしの日々のこと

推しに生かされること。

最近は「推し」という言葉が浸透していて、中年のわたし達ですら「誰のファン?」じゃなく「推し誰?」と訊く。

久しぶりに友達と食事をした。わたしは仕事帰り、友達は子供のお迎えまでの時間つぶし。その日、子供は推しのライブにひとり参加していて、それが終わると会場の最寄り駅まで迎えにいくのだと。

友達にはいわゆる推しがいたことがない。誰かに夢中になったことがない。多分、我が子が推しを推すように、好きになったものがない。ライブにも行ったことがないので、開場から何時間後くらいに迎えにいけばいいのか、見当もつかない。夫のように子供の趣味をくだらないと言うつもりはないけれど、とにかく色々なことが理解できないらしい。

なかでも、まだ義務教育中の我が子が「推しに生かされてる」というのが全く理解できないし、腑に落ちないし納得いかない、と言う。何せ、自分を生かしてくれるという推しに注いでるお金の出所は、100%母である自分なのだ。チケット代もグッズ代も親に貰った小遣いで、衣食住まるっと親がかりで、あの子を生かしてるのはわたしじゃないか、と。

ごもっとも。ごもっともである。子供もそれを言われたらぐうの音も出ないだろう。だけど、本当にあるんだよね。目の前に光が差し込むように、輝きが現れることが。週に1回更新されるYouTube、来月発売の特集記事の掲載された雑誌、イヤホンから耳に注がれる歌声や音楽、それがあるから、楽しみがあるから、嫌で堪らなくて辞めてしまいたい職場にも行けた。推しの活動に手を引っ張られるように、なんとか毎日をやり過ごした。分からないかもしれないし、別に分からなくてもいいけど、そういうものがある方が楽しく、幸せに、ご機嫌に生きていけるひともいるし、本当に魂を救うこともあるんだよ。わたしは、気づけばそんなことを語っていた。

友達は黙って話を聞いたあと、そういうのいた方が幸せなのかどうか分からないけど、学校以外に目を向けられる世界があるのは、きっとあの子にとって良いことなんだろうね、と言って、JRに乗って行った。